学校の現代音楽科の生徒たちとのコラボレーション企画、Paul Claudelのtête d'orの発表が昨日終わりました。(詳細はこちらポール・クローデルのロック。 - 踏み台における足踏みの軌跡。)
長すぎたバカンス後は朝から晩までの授業のおかげで、個人的には元気が増していく一方。演劇漬け。こういうことがしたかった。
火曜日あたりだったか、なんだか行き詰っていたものがふっと取れた瞬間があった。
一人一つtiradeと呼ばれる超長いモノローグをミュージシャンの演奏する音楽と一緒に言うために、今回はマイクを使って演技。
私の番になってマイクの前に進むと、直前にマイクを使っていた男の子が大きいため、というか私が小さすぎるために、マイクスタンドをその場で最大限に低くしなければいけなかった。
しかし、調整するもなお私より高いところに留まるマイクスタンド。
まあどうでもいいか、と気にせず続けていたら、横でぷぷーと噴き出す音が。
クラスの男の子が私を見て笑っていた。
勿論、それはマイクスタンドが私より大きいその状況に笑っていたのだけど(というのは、後から教えてもらった)、ここ最近また日本語訛りについて頭を悩ませている私は「あ、私の訛りを笑っているんだ・・・」と悲しくなる。(でも、そんなことで笑う人はこのクラスにはいないことは頭っから分かってるんだから、悲しくなる必要もないのに。人を信用していない証拠か。全くもって、自分はダメダメだ)
まあ、悲しいからといって、もちろん途中で止めるわけにもいかず、泣きそうなのを我慢しながら、続けた。いつもだったら、泣いてただろうに、なぜだか今回は我慢できた。
続けていくうちに、扉がパッと開けた。
その瞬間、自分の心のもっともっと深いところに降りた感じがした。
それまでは叫びたくて仕方なかったポール・クローデルの台詞たちが、もっと静かに落ち着いて発するように求めてきた感じがして、実際に表に出てくるものも随分変わった。
上手く言葉で表現できないが、その時にノートに書き留めたことによると、この感覚は以下のように表せるらしい。
「我慢して、我慢した先にでてくるものが美しいのかもしれない。
泣きたくても、泣かない。
泣いたら、それは「私」であって、泣いているのはその役ではない。
でも、勿論私は「役」ではないから、我慢を三回繰り返す必要はない。
我慢して、我慢した先にあるものを探すこと」
だ、そうだ。
その時の一瞬の感覚の話だけれども、我慢はどうやら二回まで。
ここに役を演じるうえでの思想みたいなものがあるのかな、と思う。
「私」が場所を取りすぎず、だからといって「役」が私を蝕むのもよくない。
このふたつが絶えず流れるようにその一瞬一瞬を存在できるようになればいいな。
ふたつの存在の対話。それがひとつの存在。
それから、対話に関して。
個人的には、今回最終的に出来たものは、音楽科の生徒と私との対話というより、彼らと私の発話の間で対話が出来上がったという感想。
それを音楽科の生徒の一人に話したら
「あなたがひとつひとつの節に時間をとってくれるだけで、それは私たちにとって会話になる。あなたの言っていることに私たちが反応していく、それが対話のひとつの方法でもあるんだよ」
と教えてくれた。
なるほど。それまでは、こちらからもミュージシャンに向けて何かを発さなくては!という気持ちが必要だと思っていたのだけど、物事のやりとりの中には、必ずしもお互いが正面切って向かい合うという姿勢のみがあるわけでもない。
ひとりが喋って、それにふんふん、と相槌を打っていくのもコミュニケーションの一つ。
相手の話を聞くために、一回口を紡ぐのもその一つ。
相手のことを考えてばかりでなく、喋りたいときは喋る!のもその一つ。
何万通りもの方法があるに違いない。
そして、この世界には、きっと私の思いもしないようなコミュニケーションの取り方が存在するのだろう。
車に道を譲ってもらったら手を挙げてありがとう、と表現するこの国において、どうしてもこっちの方が好きで頭を傾げて挨拶する私がいるように。
土曜日の市場で、あるお客さんには「良い週末を!」というけれども、別の人には「とびきり素敵な一日を!」というお兄さんがいるように。
うーん、やっぱり世界中で演劇やりたいなあ。
もっと広いところに行きたいって思ってたけど、それって具体的にはそういう意味なのかしら、と思うここ最近。
それでも、やっぱり日本に帰りたくて仕方ないここ最近。