日本の映画界黄金期を支えた大女優の一人の原節子さんが亡くなった。
映画ファンの父からメールが届いて、そのことを知る。
勝手な想像だけど、あれほどまでに映画の中で輝き、そしてこんなにも長いこと生きておられたのは、なんともまあ、なんと美しい人生なんだろう、と思ってしまう。
勝手な、女優の卵の想像。そして、そのプチ女優は今週は憂鬱に沈むのである。
今週から演出家、pauline bourseとのスタージュが開始した。
ドラマトゥルギーとは何か、から始まり、ヨーロッパにおける演劇の大まかな歴史をさらいつつ、事前に課題に出された二つの戯曲について話し合う。ひたすらテーブルを囲んでの一週間。
ちなみに、戯曲は英国人作家のDennis Kelly"Occupe toi du bébé"と、フランス人の若手作家Julie Amintheの"Une famille aimante mérite de faire un vrai repas"
まず二作品のうち一つを選び、各自作品をどう解釈できるのかを文章にしてまとめて、事前にPaulineに提出した。私はこの時点でなまけ出した。
作品選びにおいて、そもそもOccupe toi du bébéは、意味が分からなすぎるからという理由でFamille aimanteに自動的に決定。しかし、ここでこの作品、たぶん通して5回ほど読んだけど、それでもよく分からないことが多かった。
分からなくて、何をかけばいいか分からなかったから、学生の頃からのよく働いてくれる勘を頼りに、書類を完成させた。でも、この勘を頼りに、って完璧に怠惰だろう、と思う。だって、自分の能力を一ミリも超えてないもの。今まで自分の持ちあわせているものを超えたところに行きたいと思ってやってきたから、毎回自分でも目に見える進歩があって、何か手に入れた感じがあった。でも、今回のは完璧な投げやり。怠惰。
こういう怠惰を初っ端にしてしまうと待っているのは、そう。ただの詰まらない日々。
テーブルワークは、私のフランス語能力からいって圧倒的に不利だ。次から次へと飛び出てくる言葉に対して、私は60分に一回しゃべるか喋らないか。(ただし、みんなの言っていることは90パーセント分かるようになったから、ここは大きな進歩だよね)
悔しい。知っていることも、しゃべれない。言いたいことも、言えない。
そして、戯曲の話になると、戯曲の内容の段階で分かっていないのだから、思考回路が動くわけもない。何か聞かれても頭が真っ白になって、何も言葉が出てこない。机を叩いたところで、何か小判のように言葉が出てくるわけではなくて、イラつきを他人に見せているだけになってしまう。
悔しい、悔しいの連続。しかも週の後半になると、疲れも出てきて理解能力もがくんと下がってくる。
例の勘で書いた部分は、やっぱり褒められるんだ。でも、ほんと、ぜんっぜん嬉しくない。すいません、それ勘なんです、全然、根っこがないんです。
頭の中は悲しい、悔しい、情けないの大パレードである。
来週はこの一週間のテーブルワークを踏まえて舞台での稽古が始まる。本当は、演出やドラマトゥルクがやりたかったけど、今の私の能力では無理。やむなく、演じるほうに。でも、それも台詞はそんなに多くなかった。長台詞のあるの、自分で頼めばよかった。
帰りがけに、paulineに話しかけられる。本当は自分も演出側にいたかった、と言ったら、今回のがpiste(手がかり)になるはずだから、と。それから、「提出してもらった紙をみている分だと、ちゃんとあなたはあなたなりに理解しているし、私に新しい考えを与えてくれたから、大丈夫。」と励ましてもらう。
pisteって、よく授業で聞く言葉。たぶん、このpisteを探していくのが稽古でやることなんだ、と思う。そして、本来はそれは自分でやるべきことなのだと思う。今回、私は自分ではできなかった。
悔しい、悲しい、情けないの大パレードの中、週末を過ごす。
こんな週末が一番嫌だ。最高にいい週末を過ごすにはきっと、最高に疲れ切った平日が必要なんだろう、と思う。