色々捨てる。

色々あるけど、演劇があるから大丈夫だ。と思うことがあった。

事件?と言えばいいのか。

 

先週の土曜はちょうど演劇なんかやめてやると思った日。

それで、今日は、演劇があるから、稽古があるから、私はまだ大丈夫。ちゃんとしていられる、と思う日。

 

自分の意識を超えたところに自分がいたりすることもある。

自分の手には負えない範囲で物事は展開しつつある。

自分の力を超えたところに他人はいる。

 

これを知ってしまった今、私はどうやって演技をするのだろうか。

昨日までと今日までじゃ、私を構成する細胞が違う。

 

偶然にも、1月からここまで伸びた髪の毛を昨日切っていた。

フランスに来てからたんぱく質をほとんど摂らなくなった私。それでも、髪は伸び続けた。身体に入ってくる僅かな栄養で1月からよく頑張ったね、私の髪よ。しかし、さよならを言う時間であったのだ。

 

ちょっと普段しないことをしてみたくなって、さっきバターとかチーズとか乳製品全部ごみ箱に放り込んだ。ごめんね、と、ちょっと思ったけど、ちょっと普段と違うことがしたかったのだ。ロックンロールとは程遠いかもしれないけど。

パンは、またあとで捨てよう。ちょっと高い良いパンだったけど、でも捨てる。

 

わざわざフランスくんだりまで来て、ロックンロールだね、と言われたけど、全然そう思わないから、ちょっと幼い私の考えるロックなことをやってみた。ロックじゃなくて、あんたそれ食べ物に失礼だよ、と言われそうだけど、でもいいの。

 

もう、自分のために演劇する。

いい子であるところを抜け出せなかったから、そういうの振り切って、セリフを言おうと思う。動こうと思う。歌おうと思う。踊ろうと思う。舞台上で生きてやろうと思う。

結局、演劇のことしか考えられないの。自分の演劇に対する思いは、誰かに語り続けていたいの。それを話し続けられる人としか、一緒にいることは出来ない。

 

 

実は、8月からここまで6キロくらい痩せてしまったのだけど、別に健康が危ぶまれる程度の見た目じゃないし大丈夫です。でも、人に持ち上げてもらうためにも、もっと動きやすくなるためにも、もうちょいと痩せたいから、ストレスでどかっと食べるのなしにしましょう。

それだけはひとつ確実な目標として、弱い私の強がりとして、ここに記させてほしい。

 

これアップしたら、パンもごみ袋にいれて、ごみ集積所に持っていく。

そしたら稽古しに学校行きます。

 

 

たかが演劇

またまた久しぶりの更新になってしまいました。

何もなかったわけではなく、むしろ公演もあったし、3月に向けてのクリエーションも、映画のスタージュも、コンクールもあったので、ちょっと息切れ気味だった。今、ようやっとバカンスだけれど、全然やること多すぎてバカンスって感じではない。でも、バカンスは今まで起きたことを俯瞰してみていく大事な時間だから、やはりブログは書きたい。

 

ここ最近、私のなかで、「たかが演劇」がキーワードになっている。

決してネガティブな意味で言っているのではなく、肩の力を抜くために言っている。

 

例えば思いっきり演技して悲しいシーンだったりすると、どうしても感情が入ってきてしまうけれども、

そこからすぐに抜け出せる能力というのは大事だと思う。常に冷静な自分がいるから、涙を流してセリフを言ったとしても、演出側からの介入があったらすぐに「あ、今のやりすぎたよね」とスッと抜けられるような軽やかさ。

涙は流れる。でも、涙なんて、目から流れる水でしかない。

流れるものは流れるさ。というような軽やかさ。

 

ただ、この軽やかさ、稽古の段階で積み重ねていかないと、本番でただの白けた演技になってしまうから要注意なんだけど。(今週の月曜のコンクールにて起こったこと)

 

最近は個人的に頭を埋め尽くすことがありすぎて、でもそんな状態だと、思考回路がスッとスマートになる感覚を覚えることがある。

私ったら、基本的に演劇のことしか考えてない。

自分の演技に音楽性が欠けていることに気づいてからは、音楽を聴けばリズムを学び、メロディを学ぶ。

まずは頭で理解して、体に落とし込む(ところまで全然できていない)。

本当は体で理解できるのが一番いいんだけど。道のりはまだ長い。

 

ここ二週間で激痩せして、周囲に心配されるけれども、軽くなった体は扱い易いし、なんだかんだ男の子には抱えてもらうことが多いので軽いほうがいいに決まってる。あ、でも健康です、大丈夫。

 

自分が人に与えられることは何だろう、と思うと、自分が演劇を通して学んだことぐらいしかない。本当はもっと魅力的になりたいけれど、今のところそれぐらいしか私にはない。

 

演劇は私に、何故生きているのか、何故ここにいるのか、何がうまくいくのか、何がうまくいかないのか、そういったこと全てを教えてくれる。

そして、それは実人生に多大な影響を与えてしまう。

 

舞台上では、実人生以上に生きている感覚を覚える。それはもう、燃えるように生命を感じるのだ。でも、ある人に、今のところ実人生の私の方が舞台上の私より魅力的だと言われたので、演劇をしているときに感じるそれは、まだまだひよっこ女優の私の勘違いなのだろうか、とも思う。

 

そしてもしそれが勘違いだとしたら、これがただの過ちであると、いつか分かる時が来るだろうか。 

 

でも、すべてあまり重く受け止めないようにしたいのだ。

だって、たかが演劇。

舞台上で死ぬのが夢だけど、照明なんかが落ちてこない限り、そんな重大なことが起こるわけでもない。やっぱり、演劇は、演劇という、ほんのちょっぴり変わった存在でしかない。

 

そんな演劇が人生をふらりと気まぐれのように変えてしまうこともある。

人間の生はきっと私が考えているよりずっと複雑なのに。

 

でもね、La vie est belle, hein ?(人生っていいものじゃない?)なんて言われると、脳が溶けそうになるくらいには、「たかが演劇」に恋してる。

 

 

 

 

 

 

 

 

オーガニックな身体を手に入れる。

随分久しぶりの更新です。

色々、本当にいろいろあったのだけれど、どうも言葉に出来ず。

 

先週から、来週の発表のためのシーン稽古が本格的に始まりました。

私のシーンは、

ボト・シュトラウス(Botho Strauss)の「Grand et Petit(大きいのと小さいの)」からロッタ

チェーホフの「かもめ」からアルカジーナ

チェーホフの「結婚申し込み」からナタリア

 

それぞれの戯曲から一シーンごと。

それから、10月からずっと続けてきた10分のモノローグ。マリオ・バチスタ(Mario Batista)の「割れた舌」(Langue fourche)

 

ひとつひとつに大きな困難があって、すべてを書いていくのは難しいので、

先週の木曜日に起こったミラクルについて書きます。

 

話は先々週の木曜日に遡る。その日は、それぞれのシーンをみんなの前で発表していく日で、私はかもめとGrand et Petitをやった後に、続いてモノローグをみんなの前で発表するように言われた。

この2シーンが終わった後に沢山ダメだしがあり、その中で、何言っているか分からなかった、というのが相次いだのだけれども、正直発音に関しては「時間のかかるもの」と考えられるようになっていたのでそういった指摘に前ほどダメージを受けなくなっていた。

それに、舞台はもう自分のエゴをくすぐる場所ではなくなっていたので、何を言われたって自分が傷つく理由などどこにもない。

と思っていたのにも拘らず、私はまたもや傷ついていた。発音に関してあーだこーだ言われたのよりも、その指摘に傷ついたことに傷ついた。相次ぐ指摘にストレスはマックスを超えて、すでにこの時点で涙を浮かべていた。(誰にも気づかれなかったけど)

 

そんな中、今度はモノローグ。

最悪だ、と思った。

否、本来ならばどんな状態でもやれるのが俳優。それがプロなのだろう。

でも、全然できなかった。

最終的には最初の数行を言ったら途中で泣き出してやめてしまった。

この弱い精神状態の上に、このモノローグ、イタリア系移民の作者が自分は言葉がうまく喋れないということを自伝的に語る内容なのだ。だからこそ選んだのだが、あまりに心に直接触れる内容に耐えきれなかった。

 

そんなことがあっての、今週の木曜日。

自分の番が来るまでに、色々な人のモノローグ発表を見ていたら、やっぱりいい芝居っていうのは泳いでる感覚だよなあ、と納得し、自分も泳ごうと決意。

 

泳ぐとは、自分がやってきた練習に身を任せること。

もっと具体的に言うと、自分のセリフを暗記していること、自分の思考があっていること、そこに全信頼をもって、そういったこと全部を無視してやってみること。

 

今回のモノローグに関しては、暗記の際にひらすらに呼吸に注意を払った。

ある人との会話の中で呼吸の重要さに気づかされ、今回は「思考回路と呼吸を結ぶ」をテーマにやってきた。

実は、このモノローグへの自信のなさは正にこの試みにもあったりする。初めてやったことだから、あっているかどうかわからなくて、しかもテクニックとして足りていなかったりするとそこまで呼吸続かないよ、っていうのもあったり。

とにかく、地盤を固めるも、土そのものに栄養がなくてぐらぐら状態。

その点に関してはこれからも精進が必要なのだけど、

まずは現時点で出来ることをするしかない。

 

学校で頻繁に言われることの中に、身体をorganique(オーガニック)な状態にもってこい、というものがある。日本語のオーガニックとはちょっとニュアンスが違って、有機的な、身体がひとつにつながって纏まっている状態、という意味。(だと私は理解している。決してフランス人全員がこの言葉をこういう風に使うわけではないので注意)

俳優がオーガニックであれば、思考回路は体をあるべき場所へと運ぶし、体も思考を誘導する。そこにはもちろん呼吸も大事な要素として入っている。オーガニックな状態は、一見静止している身体にも大きな動きを生み出す。そこにはしっかり重みがあって、生命がある。

絶えず流れる川の水のように。

 

たぶん、木曜日私に訪れたのがそのオーガニックな状態だったのだと思う。

完璧に呼吸を操ることは出来なかったけれども、それでも呼吸は言葉を紡いだし、体を動かした。そして、面白いことに今まで一度もユーモアのある文章だなと思ったことがなかったのに、どんどん「にっこり」できる場所が見つかる!(爆笑とかでなくて、ひひひって陰で笑えるようなやつ)。いつも新たな発見に驚くこと。

さらに、オーガニックな状態というのは超集中している状態であり、演劇において超集中しているというのは、周りや自分が見えていない、或いは瞬間を覚えていないというのとは真逆で、むしろ今の状態から一歩引いて見ていられること、つまり余裕のある状態なのだと思う。余裕があるから、笑えるし、あふれだす涙をこらえることもできる。

 

もうひとつ大事だと思うのが、余裕があればどの道筋を通ってやってきたのかが分かるということ。いいものが出来てもそれがまぐれだったら意味はない。演劇だから何回も同じことをできなければいけない。

イギリスの名俳優と謳われるローレンス・オリヴィエは、ある晩ハムレットを見事に演じて、大喝采を浴びる中ひとりイライラしていたという話がある。「どうやったのか覚えてない。もう一度できない。」

 

 

こういった発見が今週の木曜日。

去年、友人に会ったときに「今年の目標は?」と訊かれ「止まっていても踊っているように見え、歌うように喋り、しゃべるように歌うことです」と答えたけど、あれ、ちょっとできてきてるんじゃない、と少し嬉しい。目標が大きすぎるので、一生の課題になりそうだけれども。

まだまだ、自分のやりたい演劇をするには私はエゴが強すぎるけど、ひとつずつ少しずつ理解していって、はっきりした目的地はないけれども動き続けることだけはやめたくないと思う。

 

 

何にも包み隠さずに告白すると、

私はフランスで演劇を始めてからミラクルをいくつか起こすようになった。

もちろん理由はいつも考えるけれども、何故だかは全く分からない。

でも、ひとつわかるのは、言葉の壁とか容姿の違いとか、本当はなんでもないんだよってこと。

そういう一見はっきりした「違い」は目立つけれども、人間を扱う演劇において、結局は個々人が異なることと同じ種類の「違い」でしかない。人間が生きていることは、それだけで感動的だし、だから本当に言葉の壁とかなんでもないと思う。

私がアクセントまじりのフランス語を話すことも、見た目がアジア人なことも「どうでもいい」として脇によけるのでなくてでなくて、「私、こういうものなんです」って、紹介していいことなのではないか。強調する、とはまた違う方向で。

 

今週の火曜日と水曜日に発表です。さて、どんなものが出来上がるか楽しみ!

 

 

 

 

 

2016年が終わる!

既に年を越した日本。フランスでは、2017年までにあと数時間ある。

 

今年はどんな一年だっただろう。来年はどんな一年になるだろう。したいだろう?

なんとなく、目標など定めないままここまで来てしまっただのだけど、ちょっと口に出してみたほうがいいのだろうか。

 

フランス語を、もう少し上手にしゃべれるようになりたい。

女優としては、風を舞い上がらせたい。

経済的に自立がしたい。

アイスランドに行きたい。

きれいになりたい。

フランスじゃなくてもいいように、英語もやる。

大学時代に勉強したことをもう一度見直したい。

歌も上手になりたい。

踊りたい。

 

今は、とりあえずこんな感じ。

2017年、がんばれがんばれ!

 

 

舞台上での在り方。

毎年、年の末に演劇科の二クラス全体で行われるプロジェクトがある。

先生に与えられたテーマをもとに、三分間の小さな作品を作る、というもの。

去年は、「鶏のオリーブ煮」がテーマだった。(去年のこの時期の詳細はこちら→

私の新しい問題。 - 踏み台における足踏みの軌跡。

今年のお題は、というと、「ストリップショー」。

クラス中の男の子ほぼ全員の十人で、近藤瑞季バージョンのボレロをperfumeのレーザービームをお借りして、一羽の丸鶏目がけて踊りました。とだけ言ってもよく分からないな笑

みんなでそろって踊る文化がないフランス人にとって、振りを覚えて合わせるのは大変、大変!

けれど、むしろその文化がないからこそ、彼らは心から楽しく踊ってくれて、多い稽古日程にも私のへたくそな指導の仕方にも一度も文句をたれることなく、個人的に最高のストリップショーが完成。(自分で自分の作品にファン過ぎて、はけ裏でニヤニヤしてた)

 

今年はそのほかに、三つの作品に出演。

お題は、Pina(ヴィム・ヴェンダース監督のPina Bauschへのオマージュ作品)

Léo FéréのLe chien

www.youtube.com

そして、20世紀初期の象徴派画家エゴン・シーレ

 

どれもこれも一癖ありの稽古の日々で書くことが沢山あるけれども、これからやってくるたっぷり時間のあるバカンスの時間に筆を譲ることにしよう。

まずは特筆すべき、公演で経験したことを書こうと思う。

今回、幸運にも3回もの公演の機会に恵まれたが、実はどれも一度も緊張しなかった。

吃驚するほど、リラックスした状態で舞台にいることができたのだ。

少し前だったら、「緊張しない」なんて、自分にとっては最悪の状態で、そんなの俳優失格だと思っていた。

だけど、今回の「緊張しない」はちょっと別物だった。

稽古をたくさんしたから自信がある、というわけでもなく、

舞台に立つことに慣れたから、でもない。

少し抽象的な言い方になるけれども、心を広げた状態でお客さんの前にいることができた、そんな状態だった。

 

この状態に至った理由に、いくつか覚えがある。

一つ目は、フランソワ・タンギとその俳優との出会い。(詳細はこちら→

不思議な一日。 - 踏み台における足踏みの軌跡。

私にとって、舞台上は自分の自己顕示欲をくすぐるような場所ではない、少なくとも目指すところはそこではないということが、はっきり分かったから。

二つ目は、その週の火曜日に観たドイツ人でフランスでも人気のオスターマイヤー演出の「かもめ」(チェーホフ)のおかげ。基本的に一番前の列で観ることを決めている私は、その日も最前列ど真ん中で観ていたおかげか、劇中、女優の一人から舞台上からやり取りを受けてしまった!ふつうはあまり好まない「客いじり」(この日本語好きではない…)なのに、今回は全くそういった感じでなくて、「こういう開かれたお客さんに対する愛情ってあるんだ!」というのをダイレクトに感じたから。

 

おそらくこの二つの経験からだろう、去年のブログにも書いてあるような「お前なんか怖くないぜ」という気持ちは一ミリもなくて、お客さんの前で、柔らかい心を広げることが出来たように思う。

そういう状態だと、落ち着いて自分のやるべきことを行い、まだまだ掘り下げていけることをその場で探っていくことができるようだ、というのも今回の発見。

 

しかも今回、舞台上でしばらく待っている時間があったのだけれども、その時間、まったく眠くないけれども目をつぶっていたら、少し旅立ってしまった。

ただ、寝てただけ、といういいかたもあるかもしれないけれども、

私はそれよりもこれを、瞑想状態、だと呼びたい。

寝ている状態か、起きている状態か自分でも分からなかったのだ。

 

将来の理想は、瞑想状態でお芝居ができることだから、今回はその一歩。

 

一年前の私にこれを言ったらただの怠け者だと言われそうだけども、緊張しまくっている人間には感じられない境地があったりするのは確かだ。

 

それから、これは前から思っていたことだけど、共演者に公演ごとに恋に落ちる感覚というのはやはり大切にしたい。リラックス状態は、舞台上での恋をさらに深くしてくれる気がする。

 

今、舞台に立つのがこんなに喜びで、どうしようと思う。

こんなのまだまだ第一歩だと思うと、これから知ることになるであろう新たな場所への期待にドキドキする。

f:id:doreetdeja:20161219021925j:plain

 

 

 

 

 

小さな壁たち

自分を評価するとは、

自分ができることはできると認め、

できないことは、できないと認め、

それではどうすればできるようになるか

或いは、どうやってカバーしていけばいいか、

と考えることなのだ

 

と思うようになってから、生きるのが大分楽になった気がする。

演劇するのもだいぶ楽になった。

どんなに大失敗しても、自分でその失敗が受け止められ、失敗した中にも小さな発見があれば、余計に力んだ態度をとる必要もない。

誉め言葉は、ありがとう、と受け止めることが出来る。

 

単純なことだけど、全然できていなかった。

何故こんな簡単なことができなかったのだろう、と不思議にも思う。

 

今、もうひとつ問題がでてきた。

それは、ストイックさを他人にも求めてしまうということである。

自分をストイックだと感じたことはないが、(というか、むしろ怠惰だなあ、と思っている)どうやら、みずきといえばストイック、らしい。

今、自分が演出するプロジェクトがひとつある。自分のプロジェクトなだけあって、熱が入ってしまい、俳優に求めるものも当然と高くなってしまう。私としては当たり前だけれど、稽古中にいちいち無駄話が多いとか、遅刻してくるとか、自分が出来ていないのに他人を助けるとか、ありえない。身体で覚えないと意味がないことをやっているので、失敗したら間髪入れずに初めから。

それらのことは、彼らにとっては少し受け入れるのが難しいらしい。

私にとっては当たり前なのに。

 

どうやって折り合いをつけていけばいいのかな。

と、今は悩んでいるけれども、そのうちに、なんでこんな簡単なことに気づかなかったのだろう、と思う日が来るのだろうか。

 

そうだと願って、ひたすらに稽古をしていくかない、と今は思う。だから、稽古。

 

 

不思議な一日。

センスがある、とは、自分を超える何か、まったく新しいものに出会ったときに立ち止まれるかどうかだ。

 

と、大学生時代に講義で聞いた言葉を思い出した。

そういう演劇を見たからだ。

 

よく分からないまま企画され、ナントにある建築学校の舞台美術科の学生と私たちでルマンという場所まで謎の合同遠足に行ってきた。

主な目的は、フランソワ・タンギ(François Tanguy)という演出家の作品「Soubresaut」をみて、彼とのディスカッションだったけれども、誰一人としてその日のスケジュールを把握しないままミニバスに揺られてルマンへ。

変な一日はそうして始まった。

 

と、ここで実はミニバスに乗る前から変だったことを思い出した。

集合の際に、建築学校の先生から

「今日、君たちがみる作品はいわゆる演劇ではありません。テクストとか、そういうところから遠く離れた作品だから、心しておくように。ちなみに、フランソワ・タンギが今日どういった状態なのか分かりません」

と言われていたのだ。

それを言われた直後は、そんな風に言わなくても、別にどんな演劇もそれなりに受け止める懐の広さはあるさ、と鼻で笑っていた。

 

でも、そういわれたのにはそれなりの理由があった。

だって、正直、「ナニコレ?」っていうものを観たからだ。

ちょっと次元が違う、ナニコレ感。

いうなれば、悪夢の連続?この一週間の疲れも相まって途中で眠りこけたけど、起きてもずっと悪夢が続いて、本当に「ナニコレ?」って感じだった。

ナニコレ、演劇?

 

終わって、周りの人は「ちょうつまんなかった」とか「古臭い演劇」とかバンバンに悪口を言っていたけど、私は自分の見たものを消化できないまま、「超つまんなくはなかったよー」などと軽く反抗。

 

そんな中、フランソワ・タンギ登場。

普通のおじさんのようだけど、情緒不安定な感じとアルコール中毒?みたいな言動に、少し空気がゆがむ感じがする。ちょっと、普通だけど、普通じゃない感じ。

みんな変なものを観たから何も言えなくなっていたけれども、思い空気を切るようにクラスの男の子が出演していた俳優に質問を投げかける。

「俳優として、この作品にかかわる喜びは何なんですか?僕にはあなたち一人一人の人間性が垣間見られなかった」

 

それで、返ってきたのがこれ。

「あなたの言う喜びとか人間性って何?」

 

わ、と思った。だって、この返答は全然攻撃的じゃなく返ってきたのだ。

人間性、ってなんだ?舞台上での喜びって、私は感じるけれど、それが他者も同じものを感じていると何故いえる?

 

そこからそれこそ空に浮かぶ雲を掴むような調子でフランソワ・タンギが話し始める。あまりにあっちこっちに話が飛んでいくものだから、ついていくのが大変だったけれども、彼の言いたいこと、は何回も繰り返されたこの言葉の中にある気がする。

「ああー今日は曇りだ。でも、曇りだから悪い天気なのか?太陽が出てるからいい天気だといえるのか?」

 

今いる場所を疑え。

ずっとそれだけをいい続けていたお芝居だったのかもしれない。

だけど、正直まだ全然わからない。

分からな過ぎて、普段だったら絶対にしない「みんなの前で質問」をやってしまった。

言葉が口をついて出た。そんな感じ。

「これって演劇なんですか?私は面白いと思ったけど、この作品を嫌う人がいるのも理解できる。なんで観客に対してもっと開かれたものにしないのですか?」

失礼ともいえる質問をバンバン投げかけてしまった。失礼だったけど、でも、それだけこの作品が私に対して何かしら働きかけてしまったようだった。

 

全体での質問の時間が終わって、身体が熱をもって一人でカッカしているのにも耐えられず、出演していた女優さんに話しかけた。

「こういうお芝居をして怖くないですか?舞台に立つのは怖くないのですか?観客から批判されたりするのは?」

そういう私に彼女はこう答えた。

「私にとって、演劇は自尊心をくすぐる場所ではないの。そういうところで演劇を一度もやったことはない。演劇は、私がなぜ生きているか、この世界はどうなっているのか、私とはなんなのか、を考えさせてくれる場所。だから、全然怖くない。私にとって、この作品が私の人間性そのもの。」

 

この人たちは、まったく次元の違う場所で演劇をやっているのだ、と思った。

演劇は彼らにとって、もっと神聖なものなのだ。

少し恥ずかしいと思った。彼らのような演劇がやりたいとは思わないけれども、演劇に神聖さを感じる人間としては、世の中に溢れているものより、この人たち側に立っていたいのだ。私は、この人たちみたいになれないけれども、この人たち側に寄り添っていたいのだ。

 

ポーランドの演出家で今は既に亡くなってしまっているタデウシュ・カントールという演出家がいる。彼の代表作「死の教室」を学生時代にDVDで観た時の感覚は、今回の作品を観た感覚とそっくりだ。

www.youtube.com

 

その女優さんによれば、彼の死んでしまった今、それでもなおカントールと仕事をしたい俳優は、フランソワ・タンギのもとへ行け、と言われているらしい。

 

繰り返しだが、彼と同じことをしたいわけではない。

けれども、あの悪夢のような時間のなか、ひとつ終わりと始まりがあってひとつ完結した何かができたのは、一本ふといふとい芯が通っていたからだ。観客に一切媚びずに、己の道を行く、何があっても。という芯。

あ、この強さだ、と思った。

この強さがきっと私を助けてくれる。

この強さがほしい、と思った。

 

ちょっとやりたいことが見えてきた気がする。

 

踊りたい。

 

すごい作品っていうのは、私を一ミリくらい動かす力を持っている。