小さな壁たち

自分を評価するとは、

自分ができることはできると認め、

できないことは、できないと認め、

それではどうすればできるようになるか

或いは、どうやってカバーしていけばいいか、

と考えることなのだ

 

と思うようになってから、生きるのが大分楽になった気がする。

演劇するのもだいぶ楽になった。

どんなに大失敗しても、自分でその失敗が受け止められ、失敗した中にも小さな発見があれば、余計に力んだ態度をとる必要もない。

誉め言葉は、ありがとう、と受け止めることが出来る。

 

単純なことだけど、全然できていなかった。

何故こんな簡単なことができなかったのだろう、と不思議にも思う。

 

今、もうひとつ問題がでてきた。

それは、ストイックさを他人にも求めてしまうということである。

自分をストイックだと感じたことはないが、(というか、むしろ怠惰だなあ、と思っている)どうやら、みずきといえばストイック、らしい。

今、自分が演出するプロジェクトがひとつある。自分のプロジェクトなだけあって、熱が入ってしまい、俳優に求めるものも当然と高くなってしまう。私としては当たり前だけれど、稽古中にいちいち無駄話が多いとか、遅刻してくるとか、自分が出来ていないのに他人を助けるとか、ありえない。身体で覚えないと意味がないことをやっているので、失敗したら間髪入れずに初めから。

それらのことは、彼らにとっては少し受け入れるのが難しいらしい。

私にとっては当たり前なのに。

 

どうやって折り合いをつけていけばいいのかな。

と、今は悩んでいるけれども、そのうちに、なんでこんな簡単なことに気づかなかったのだろう、と思う日が来るのだろうか。

 

そうだと願って、ひたすらに稽古をしていくかない、と今は思う。だから、稽古。

 

 

不思議な一日。

センスがある、とは、自分を超える何か、まったく新しいものに出会ったときに立ち止まれるかどうかだ。

 

と、大学生時代に講義で聞いた言葉を思い出した。

そういう演劇を見たからだ。

 

よく分からないまま企画され、ナントにある建築学校の舞台美術科の学生と私たちでルマンという場所まで謎の合同遠足に行ってきた。

主な目的は、フランソワ・タンギ(François Tanguy)という演出家の作品「Soubresaut」をみて、彼とのディスカッションだったけれども、誰一人としてその日のスケジュールを把握しないままミニバスに揺られてルマンへ。

変な一日はそうして始まった。

 

と、ここで実はミニバスに乗る前から変だったことを思い出した。

集合の際に、建築学校の先生から

「今日、君たちがみる作品はいわゆる演劇ではありません。テクストとか、そういうところから遠く離れた作品だから、心しておくように。ちなみに、フランソワ・タンギが今日どういった状態なのか分かりません」

と言われていたのだ。

それを言われた直後は、そんな風に言わなくても、別にどんな演劇もそれなりに受け止める懐の広さはあるさ、と鼻で笑っていた。

 

でも、そういわれたのにはそれなりの理由があった。

だって、正直、「ナニコレ?」っていうものを観たからだ。

ちょっと次元が違う、ナニコレ感。

いうなれば、悪夢の連続?この一週間の疲れも相まって途中で眠りこけたけど、起きてもずっと悪夢が続いて、本当に「ナニコレ?」って感じだった。

ナニコレ、演劇?

 

終わって、周りの人は「ちょうつまんなかった」とか「古臭い演劇」とかバンバンに悪口を言っていたけど、私は自分の見たものを消化できないまま、「超つまんなくはなかったよー」などと軽く反抗。

 

そんな中、フランソワ・タンギ登場。

普通のおじさんのようだけど、情緒不安定な感じとアルコール中毒?みたいな言動に、少し空気がゆがむ感じがする。ちょっと、普通だけど、普通じゃない感じ。

みんな変なものを観たから何も言えなくなっていたけれども、思い空気を切るようにクラスの男の子が出演していた俳優に質問を投げかける。

「俳優として、この作品にかかわる喜びは何なんですか?僕にはあなたち一人一人の人間性が垣間見られなかった」

 

それで、返ってきたのがこれ。

「あなたの言う喜びとか人間性って何?」

 

わ、と思った。だって、この返答は全然攻撃的じゃなく返ってきたのだ。

人間性、ってなんだ?舞台上での喜びって、私は感じるけれど、それが他者も同じものを感じていると何故いえる?

 

そこからそれこそ空に浮かぶ雲を掴むような調子でフランソワ・タンギが話し始める。あまりにあっちこっちに話が飛んでいくものだから、ついていくのが大変だったけれども、彼の言いたいこと、は何回も繰り返されたこの言葉の中にある気がする。

「ああー今日は曇りだ。でも、曇りだから悪い天気なのか?太陽が出てるからいい天気だといえるのか?」

 

今いる場所を疑え。

ずっとそれだけをいい続けていたお芝居だったのかもしれない。

だけど、正直まだ全然わからない。

分からな過ぎて、普段だったら絶対にしない「みんなの前で質問」をやってしまった。

言葉が口をついて出た。そんな感じ。

「これって演劇なんですか?私は面白いと思ったけど、この作品を嫌う人がいるのも理解できる。なんで観客に対してもっと開かれたものにしないのですか?」

失礼ともいえる質問をバンバン投げかけてしまった。失礼だったけど、でも、それだけこの作品が私に対して何かしら働きかけてしまったようだった。

 

全体での質問の時間が終わって、身体が熱をもって一人でカッカしているのにも耐えられず、出演していた女優さんに話しかけた。

「こういうお芝居をして怖くないですか?舞台に立つのは怖くないのですか?観客から批判されたりするのは?」

そういう私に彼女はこう答えた。

「私にとって、演劇は自尊心をくすぐる場所ではないの。そういうところで演劇を一度もやったことはない。演劇は、私がなぜ生きているか、この世界はどうなっているのか、私とはなんなのか、を考えさせてくれる場所。だから、全然怖くない。私にとって、この作品が私の人間性そのもの。」

 

この人たちは、まったく次元の違う場所で演劇をやっているのだ、と思った。

演劇は彼らにとって、もっと神聖なものなのだ。

少し恥ずかしいと思った。彼らのような演劇がやりたいとは思わないけれども、演劇に神聖さを感じる人間としては、世の中に溢れているものより、この人たち側に立っていたいのだ。私は、この人たちみたいになれないけれども、この人たち側に寄り添っていたいのだ。

 

ポーランドの演出家で今は既に亡くなってしまっているタデウシュ・カントールという演出家がいる。彼の代表作「死の教室」を学生時代にDVDで観た時の感覚は、今回の作品を観た感覚とそっくりだ。

www.youtube.com

 

その女優さんによれば、彼の死んでしまった今、それでもなおカントールと仕事をしたい俳優は、フランソワ・タンギのもとへ行け、と言われているらしい。

 

繰り返しだが、彼と同じことをしたいわけではない。

けれども、あの悪夢のような時間のなか、ひとつ終わりと始まりがあってひとつ完結した何かができたのは、一本ふといふとい芯が通っていたからだ。観客に一切媚びずに、己の道を行く、何があっても。という芯。

あ、この強さだ、と思った。

この強さがきっと私を助けてくれる。

この強さがほしい、と思った。

 

ちょっとやりたいことが見えてきた気がする。

 

踊りたい。

 

すごい作品っていうのは、私を一ミリくらい動かす力を持っている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

散歩のあとの備忘録

特筆すべきことはないけど、

進まない中で、自分なりに頑張っています。

 

他人に見えなくても、自分の中では一ミリずつ動いている。

誰に評価されなくとも、自分がわかっていればそれでいい。

 

誰にも受け入れられないのならば、自分で評価するしかない。

先生から出された課題、自分のいいところを一日ひとつ書き出す、は中断していたけれど、再開すべきな気がしてきた。

誰かに一緒に演劇やろう!と言われなければ自分でプロジェクトを生み出せばいいのだ。

受け身だった日々が続いてた気がする。

なんのためにフランスに来たのか忘れていた。

 

もう少し割り切ったことを言うと、フランスであることにこだわってはいない。

ここが演劇をするのにいい場所であることは賛成だけど、ここで面白い演劇がみられるわけではない。

 

そういえば、この間生まれて初めて舞台作品を見て泣いた。

サーカスだった。Baro d'Evel Cirkというサーカス。スペイン人とフランス人のカップルを中心に集められた世界中のダンサーが馬と鳥たちと物語る。

使う言語はフランス語と英語とイタリア語。誰も母国語を舞台上で使わない。

終わった直後は、全然言葉にできなくってしばらく頭が沸いていた。

次の日ダンスの授業前に一人でウォームアップをしながら、舞台を思い出していたら、だばーと涙があふれてきた。

いい舞台は、他人にも心があることを思い出させてくれるように思う。

 

なぜ私は演劇をしているのか。

演劇でなければいけないのか。

何がしたいのか、を真剣に考えよう。常に問い続けよう。

 

 

名人に学ぶ、靄の中の進み方。

しばらく更新していなかった。

なぜって、なんだか進歩を自分の中に見つけられない日々が続いたから。

今まで、前だけ向いて、とにかく変化することに重点を置いてやってきたからかなあ。

 

そんなモヤモヤの続く中、昨日友人のtwitterを通して知った中島敦の「名人伝」を青空文庫で読んだ。

内容は話さないけれど、弓矢の名人になるために精進した人の話。

ユーモアを交えたその話に、ぐふふと笑っては、自分の情けなさを知る。

なーんだ、私なんて本当に赤ちゃんだー、と。

演劇をやっていくにあたって、きっと自分が考えているよりたくさん時間がかかることに気づく。

ネットを開けば、すごい演劇人が山のようにいることを知る。

私、こんな動きできないや、とか。

それから、「いい俳優なんてのは沢山いるんだろう」ということも、なんとなく思う。

私はその中に入っていけるだろうか。いい俳優。

 

まだまだ靄の中にいる気分だけど、

少しずつ、今までできなかった動きができるようになったりとか、

自分の発音がネイティブのそれとは違うと耳で判断できるようになったりとか、

体が力んでいるのに気づけるようになったりとか、

いろいろ、小さいビクトリーを重ねている。

今年の頭にダンサーの友人に言われたことを思い出す。

「僕たちには小さい勝利しかない。それらの積み重ねが大きな勝利へとつながっていくのだ。」

 

もしかしたら、今までも小さい勝利しかしてなかったのかもよ?

それを「大きい!」と勝手に喜んでいただけかも。

そうかも。

 

明日からも、コツコツ、精進だ。

 

私は私は私。

学校が始まって、とどまることなく様々なことをやってきたので、新しいクラスになってまだ一か月弱だということを忘れた私たちは、今ようやっとバカンスです。

去年は「こんなもんいらんわい!」と思っていたのですが、今回ばかりは必要だった笑

 

先週は木曜日と土曜日に、ナントにあるブルターニュ公城にて開かれていたフェスティバルでリーディングをしました。

数年前の私に、お城でレクチャー、なんて言ったらひっくり返るんじゃないか。

控室も勿論お城の一角で、眠れる森の美女の塔のようなものを少し上ったところにある。流石にみんなで興奮していたけど、お城のある生活がだんだん普通になってきたここ最近です。

 

そして今週からは10分に及ぶモノローグへと取り掛かりました。

 

でも、その前に、私は月曜日で躓いた。

月曜日の午後に授業がなかったので、クラウンスタージュにてお世話になったキャサリンから出ていた課題を皆で集まってやることに。

その課題とは「金曜日にやったそれぞれの小作品について話し合うこと」

担任の先生もなしで行うこと。何故なら、「仲間にダメ出し、感想を言える、というのはすごく大事」だからだそうだ。

 

それぞれから出てくる感想、ダメ出しに何となく違和感を感じながらも、何となく聞いてる。(でも最近はしっかり発言できるようになってきたんだよ。嬉しい。)

そして私の番。

吃驚した。

吃驚するくらい批判的だった。いや、もしかしたら私がそう受け取ってしまっただけなのかもしれないけれど、みんなから出てくる言葉によって、あたかも自分が最悪なものを披露したような気分にさせられた。

批判的、といってもそこまでじゃないし、根本にはやさしさがあるのだから、そんな風に受け取る私が悪いのかもしれない。

しかし、私はこの傷をその後木曜日あたりまで引きずってしまった。

 

自分でも、そんなにうまく?出来たと思ってはいないし、まだクラウンの世界に足先をチョッピリつけた程度だから、金曜日の小作品は一週間のスタージュで私が発見したものを手がかりにやった。でも、彼らからのダメ出しは、そうやって見つけた小さな私のクラウンを真っ向から否定するような、そんなものだった。それが悪意がないものだとしても、かなりショックだった。

勿論、私が見つけたものが正しいとは限らない。この先続けていれば、あれは間違いだったと自然と気づくこともあるかもしれない。

それでも、思う。私が経験した一週間、短いその時間で、私がみつけた小さな宝石は、果たしてニセモノだったのか?と。

 

こたえは、ノン。

私の小さな宝石は、変わらず輝いているし、それを守っていくのは私である、というのが今の気持ち。

私はこのクラウンスタージュを全くの白紙から始めた。日本人の私にとっては完璧によく分からないもの。対して、私以外のクラスメートはある程度のイメージを持っている。基盤が違うんだから、そもそも受け取るものも違う。スタージュの末に、私が導き出したAという事実も、それは私が皆とは全く異なったコンテクストをもって理解した結果である。だから、彼らにとってはAの対立項のBが正解だとしても、私にはそれが理解できない。だって、そもそもが違うのだから。

そんなことを、スカイプで話していた母に言われた。

 

「人の前に立つ人は大変だよね。他人の声を聴きつつ、それでも自分の信じる道を行かねばならないのだから」

 

その通り、俳優というのは矛盾している。人に見せてあーだこーだ言われるのを前提に、それをすごく気にしたり、時にそれにすごく傷ついたりしながら、それでも結局はある程度「それはそうとして!」と言い聞かせて己の信じる道を行かなければ行けないのだから。

 

他人からもらったダメ出しは貴重だし、謙虚に聞くべきだ。

ただ、悲しいかな、他人は他人である。良くも悪くも他人である。

他人は、私の頭の中がどうなっているかなんて知らないし、それを知らないで私にむかって言葉を発する。だからこそ他人からのアドバイスは私の中からは出てこないものになり、興味深い。だからこそ、時にものすごい威力を持って私に向かってくる。

決し安定したものでないものを前に、まず何よりも私が一番大事にしなければいけないのは、私自身なのではないか。

私がキャサリンから受け取った個人的なメッセージであり、それを受け取った私なのではないか。

決して驕った気持ちではなくそう思う。

 

そう、つくづく、私は違う。

フランス人じゃない。フランス文化で育ってない。見た目も違う。考え方も違う。

だからどうだとかでなくて、そうである自分を信じて立っているしかない。正直、それしか立つ方法がない。

 

スタージュ中、キャサリンに積極的に日本語を話すように勧められたのは、「日本語でしか触れられない景色があるから」だ。だから、曲を選んでこいと言われたときに迷いに迷ったけど、くるりの「ばらの花」を選んで流した。案の定涙が止まらなかった。けれど、ぽろぽろ流れてくる音と歌声に、寒かった冬の日とか、苦い恋愛とか、大学への通学路とか、あの時期に着ていた服とか、そういうことが、青春映画かよダサいぜ、みたいに思い出させられる。私が経験した私だけの瞬間。

その景色を思い出せるのはそれを通ってきた私だけで、そして、それを通って、私は今ここにいる。

 

私とあなたは違う。

違うから難しい。でもだからこそ尊い。

それを忘れずに、これからも演劇できたらいいよね。人へのダメ出しや感想も、それを大前提にして言いたいね笑

 

そうそう。この間、写真を撮ってもらったんだけど、写真でみる自分と鏡で見る自分はこうも違うかあと興味深かった。よく笑うから顔中しわだらけだし、たまに二重顎になってたりで、美しい、とは思えなかったのだけど、いろんな瞬間を通って今ここにある顔は愛おしい。これはこれで、美しいではないか、と思ったりする。

 

 

f:id:doreetdeja:20161023020158j:plain

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

赤、白、黒の化粧の下に。

今週は、ピエロになって生きました。

女優であり、クラウン俳優としても有名なキャサリン・ジェルマンとのスタージュ。

 

クラウン、日本で言うピエロは、フランスではひとつの演劇の形としてその地位を確立している分野らしく、多くの国立演劇学校でもスタージュとして組み込まれている。クラウン専門の学校もあるらしい。

 

そんなクラウン文化から完璧に外れている私にとって、クラウンは本当に「未知のもの」。

初めて出会うクラウン、その言葉、その世界。

受け取る量があまりにも多く、ノートにメモするペンが追いつかない。感じたこと、見たこと、キャサリンが言ったこと、全部ぜんぶ書き残したかった。

それほどまでに、クラウンは魅力的だった。

ひとつの哲学だ、と思った。

 

夏休み前にキャサリンは、私たちに手紙を送ってきた。以下、その一部抜粋である。

「クラウンは、登場人物ではありません。何者でもありません。

では、どんな「人」だといえるでしょうか?

クラウンは、人間になりたい。人間の生活の中に入り込みたい。

彼はこの欲望からできていると言えるでしょう。

その彼の欲望、生命の鼓動が、私たち人間の奥底に触れ、感動させ、笑わせるのです。」

 

この数行が、実際にやると非常に複雑だった。

 

スタージュの一週間、私たちは毎日衣装に着替え、化粧をしてまさに「大変身」をした。それこそ、もとが誰だか判別がつかないまでに。

でも、不思議なことにそれほどまでに「私」を消し去ってしまうのにも関わらず、それでもって舞台上に立つと「素っ裸」になった気分なのである。自分が舞台にいるときにもそれを感じたし、何よりも他の人がやっているのを見ると一目瞭然なのだ。

 

何故、私を消し去る行為が私を裸にさせるのか?

キャサリン曰く、「変身とは、自分自身をその中において解き放つ方法」である。

自分自身を解き放つとは、自分の奥深くに潜む欲望を知ること。知って、表に出すこと。

 

クラウンが欲望から出来ているのだとすれば、クラウンこそ私の奥底にあるもの?

ここで再び「役」と「私」の関係に話が戻ってくる。

 

役を演じるときに、私が難しいなと思うのは、私自身と役との境界線だ。

ひとつ大きな手掛かりを見つけた3月。(詳細は対話の方法。世界は広い。 - 踏み台における足踏みの軌跡。にて)

今回のクラウンスタージュを通して、3月に見つけた自分なりの演じることについての精神の透明度が上がった気がする。

私が体験したことをわかりやすく説明するために、私のクラウン「Moccha(モッチャ)」に登場してもらいます。

私はモッチャであり、モッチャは私である。モッチャはお客さんがいる舞台上へと出ていく。そうすると、私は何かを感じる。例えば、「怖い」。人前に立って何かをするのは怖い。とんでもないエネルギーが渦巻いているからだ。でも、その「怖い」を表現するのは、私ではなくモッチャだ。つまり、モッチャの役割は私の感情を翻訳していくこと。

だから、何事にも最初はものすごく時間がかかる。キャサリンがモッチャに何かを語りかけたら、それを理解したり、その言葉をからだの中にぐるぐる回していく必要がある。そして、その言葉が私に、そしてモッチャにどう影響してくるかを見極める。

それと同時に、俳優自身は、役を信頼してその身を任せる勇気をもつ必要もある。

モッチャはひとりで出来るから、私が妙に心配してどうこうしなくってもいいのだ。モッチャの感性に任せよう。

その勇気だ。

一般的に「演技が上手い」の判断が私には出来ないのだけれど、こんなことを考えると、役に自分自身を任せられている状態をそう言うのかなと、今は何となく思う。

そう思うと、役が俳優に「憑依」するというよりも、むしろ俳優が役という舟に乗って水の上で揺られているイメージがしっくりする。

演技というのは、どこかゆとりがあって流れるような行為なのかもしれない。

外界からの色々を私は感じる。それを私はたっぷりと大きな舟にだらだらと広げるのだ。舟はそれを原動力に前に進んでいく。私の意志とは関係なく、勝手に、好きな方へ。

 

これはキャサリンも一週間私たちに言い続けたことだが、お客さんが笑ってくれたからといって思わずこちらも笑うのはよろしくない。

それは、モッチャが笑っているのではなく、私が笑ってしまっているからだ。

こうやって考えてみると、日本語の「素笑い」ってなかなか言い得て妙、な言葉である。「素」の私が笑ってしまうという意味なのか。(全然分かってなかった…)

この「素笑い」はエネルギーの無駄遣いであり、今モッチャが経験しようとしたことを途中で切ったことになる。

舟に流すべきエネルギーを私自身が消費してしまっている、といったところだろうか。

 

 

あまりにも広く、あまりにも哲学的で、まだ消化しきれていない。

でも、ひとつわかったことは、クラウンは演劇の一番大事な部分を両手両足広げて見せているということ。

厚い化粧の下に、膨大なテクストのうしろに、俳優は隠れることができないのだ。

私の顔でないのに、私の言葉でないのに。

演劇は、嘘をついて、本当を見せてしまう。

 

初めてだけど、写真を載せます。

私のクラウン、モッチャです。

みんなに、「化粧すると分かるけど瑞季の鼻って長いんだね!気づかなかった!」

私も知らなかったです笑

f:id:doreetdeja:20161009214310j:plain

 

 

 

 

 

褒め言葉

先週の木曜日から授業が本格的に再開してから、ずっと朝から晩まで授業漬け。死ぬほど大変なわけでもないけど、滅茶苦茶疲れる、演劇ばかりの毎日。でも、すごい幸せである。

 

新学期早々、そんな演劇漬けの毎日から飛び出して、思わず映画が出現した。

コンセルヴァトワールナントの提携校として、ナントにある映画学校準備校がある。

演劇にも国立演劇学校があるように、映画にもパリにあるルイ・リュミエール映画学校や、Fémis(フェミス)など国立映画学校がある。その学校に入るための準備校である。映画人の卵たちの巣とでも言おうか。

今年、その若き映画人たちが、授業のプロジェクトとして、私たち演劇側一人ひとりに当て書をして映画撮影をしてくれるという。贅沢プロジェクト。

今週の木曜日に、彼らのキャスティングの授業があったので、私たちは事前に渡された台本を演じることとあいなった。

 

さて、ただでさえ面白そうなこの話はここで終わらない。

先週の土曜に担当の先生から発表があり、なんと

「キャスティングの授業に、リュック・ベッソンのキャスティングディレクターが来る」

とのことだった。

彼女は私たちをキャスティングしにくるわけじゃないけど、滅茶苦茶いい機会だから絶対に台本は覚えてこい、との指令。

リュック・ベッソン。フランスでは謂わずと知れた、日本ではナタリーポートマンとジャンレノの「レオン」の監督、と言えば大抵の人は分かる、その映画監督。彼の映画のキャスティングをここ最近手掛けている女性が講師として来るというのだ。

みんなの緊張度がぐぐん、と上がるのが手に取るようにわかった。

一方で私は、「レオンの人か。観たことないなー、恥だ」と思うフランスカルチャー外れ者の日本人。そんなことより、台詞を覚えなきゃいけないことに少しげんなりしていた。

 

来るキャスティング授業の日。

ナタリー・シェロン。30年のキャリアを積んでいるキャスティングディレクターの素早く効率的な仕事に、赤ちゃん演劇人・映画人は圧倒される。(彼女が私たちをそう呼んだ笑、赤ちゃん、って)

「フランス人の俳優のトロイ事!頭でっかちで、身体は動かない。トマトを切りながら台詞をしゃべれさえしない。効率的じゃない!」と、辛辣な言葉を並べていく。(注、これは私たちにいったことでなくて一般的な俳優の話をしている)

インターナショナルに活動し、長年の実績を積んだ先に出てくる言葉なのだろう。痛快すぎて面白かったけど、フランス人にとっては耳の痛いものだったのだろうか。

でも、何となく私はこの人が好きだ、と思った。

「私は意地の悪い監督とは仕事しないの。俳優が大好きだから。彼らを傷つける人は許せない。」

と、言い切る彼女。この仕事が好きでやっている。それが全身から滲み出ていた。愛情のこもったきつい冗談そのものが、彼女のような。

 

さて、実際のキャスティングはというと、みんなカメラの存在と、映画という媒体にビビッてまったくいつも通りに出来ていなかった。

私の番は一番最後に回ってきた。シーンはロマン・ポランスキー監督「毛皮のビーナス」の冒頭シーン。

www.youtube.com

「なんとかなるさ」精神を持った私は強い。らしい。

カメラとか映画だとか気にしないで、演劇を楽しむことに集中した結果、なんだか上手くいった。らしい。

さらっと書くが、重要なのはここからである。

 

撮影を終え、午後に午前中に撮ったシーンの上映会があった。

自分の顔や演技を画面いっぱいにみることほど辛いことはない。拷問だ。

ナタリー曰く、「俳優はカメラのまえで素っ裸のようなもの。だから、彼以外の人間がクスリと笑うことは許されないの」

私の撮影シーン上映。私も、素っ裸にされていた。拷問だ、と思った。

「ここにいちゃだめだ。日本に帰らなきゃだめだ。」と思いながら、おでこをポコポコ叩く。

映像の中の私のフランス語は、酷かった。正直こんなだと思っていなかった。自分では比較的上手に発音していると思っていたのに、実際は「へたくそな日本語なまりのフランス語」だった。本当に、酷かった。3年やってこれか。

 

上映が終わってから、今まで俳優たちに先に話させていたナタリーが立ち上がって言った。

「この中で、一番フランス語をうまく使いこなせないこの子が、一番この世界に存在していたわよね?私は100パーセント、この子が(シーンの中で)言っていることを信じたわ。この人物はこういう人なんだって、思ったわ」

正直、これ以上ないほどの褒め言葉である。

ただ、私はその横でボロボロと涙を流して「本当に、フランス語どうにかしなきゃ」とブツブツ言っている。

すると「私の今までの賛辞を受け取らないつもりなの?」と。

 

そう、賛辞を受け取ることは難しい。日本人の性格からくるものなのか、私の性格なのか。(ナタリーによると、日本人的な要求の高さ、だと)

一通りの上映が終わって、学校の仲間がわらわらと集まってくる。

「みずき、本当にムカつく」と。

おまえの訛りなんて誰一人として気にしていない。みんなそんなことむしろどうでもいいと思っている。いい加減、発音云々から離れろ。大事なことはそこにはないのだ、と。

 

担任の先生からも言われた。

「いい加減、その態度は腹立たしくなるわよ。キャスティングディレクターがあなたのこと大好きだって言ってるのよ。私たち俳優が賛辞を貰えることなんていうのは、本当に稀なこと。賛辞が欲しくて欲しくてたまらない存在なのにね。だから、しっかり今この瞬間を味わい、彼女の賛辞を受け取りなさい。それも大事なことなのよ。」

 

褒め言葉を受け取ることが大事なことだなんて思ってもいなかった。

出来るだけ謙虚にいることに重きを置くべきだと、そう信じていた。

でも、他者からの真摯な言葉は、届くべき人のところに届かずして、どこに浮かぶのだろう。

 

相手の心からでてきた言葉は、しっかり私の心で受け止めたい。

初めてそう思った。

 

思うのです。

「なんとななるさ精神」は私が思っているよりもずっと大きいものなのだろう、と。

私が考えていた物事を進めていく力以外にも、外部からの力をふわりと受け止めていく、そういう柔らかさを持っているのだと。

 

 

どうやら私にはお芝居することを心から楽しむことの出来る余裕があるらしい。

フランス語はまだまだこれから。こちらも、嬉しいことに改善しかされないもの。

演劇を心から楽しいと思い、同時に舞台への恐怖を感じると、目の前はキラキラして体中がビリビリしてくる。比喩とかでなく、本当にそうなのだ。

あまりの嬉しさに涙が出てくる。こんな感覚、ふつうは味わえない。

それを味うことを選んだ過去の私に、私は賛辞を送りたい。