褒め言葉

先週の木曜日から授業が本格的に再開してから、ずっと朝から晩まで授業漬け。死ぬほど大変なわけでもないけど、滅茶苦茶疲れる、演劇ばかりの毎日。でも、すごい幸せである。

 

新学期早々、そんな演劇漬けの毎日から飛び出して、思わず映画が出現した。

コンセルヴァトワールナントの提携校として、ナントにある映画学校準備校がある。

演劇にも国立演劇学校があるように、映画にもパリにあるルイ・リュミエール映画学校や、Fémis(フェミス)など国立映画学校がある。その学校に入るための準備校である。映画人の卵たちの巣とでも言おうか。

今年、その若き映画人たちが、授業のプロジェクトとして、私たち演劇側一人ひとりに当て書をして映画撮影をしてくれるという。贅沢プロジェクト。

今週の木曜日に、彼らのキャスティングの授業があったので、私たちは事前に渡された台本を演じることとあいなった。

 

さて、ただでさえ面白そうなこの話はここで終わらない。

先週の土曜に担当の先生から発表があり、なんと

「キャスティングの授業に、リュック・ベッソンのキャスティングディレクターが来る」

とのことだった。

彼女は私たちをキャスティングしにくるわけじゃないけど、滅茶苦茶いい機会だから絶対に台本は覚えてこい、との指令。

リュック・ベッソン。フランスでは謂わずと知れた、日本ではナタリーポートマンとジャンレノの「レオン」の監督、と言えば大抵の人は分かる、その映画監督。彼の映画のキャスティングをここ最近手掛けている女性が講師として来るというのだ。

みんなの緊張度がぐぐん、と上がるのが手に取るようにわかった。

一方で私は、「レオンの人か。観たことないなー、恥だ」と思うフランスカルチャー外れ者の日本人。そんなことより、台詞を覚えなきゃいけないことに少しげんなりしていた。

 

来るキャスティング授業の日。

ナタリー・シェロン。30年のキャリアを積んでいるキャスティングディレクターの素早く効率的な仕事に、赤ちゃん演劇人・映画人は圧倒される。(彼女が私たちをそう呼んだ笑、赤ちゃん、って)

「フランス人の俳優のトロイ事!頭でっかちで、身体は動かない。トマトを切りながら台詞をしゃべれさえしない。効率的じゃない!」と、辛辣な言葉を並べていく。(注、これは私たちにいったことでなくて一般的な俳優の話をしている)

インターナショナルに活動し、長年の実績を積んだ先に出てくる言葉なのだろう。痛快すぎて面白かったけど、フランス人にとっては耳の痛いものだったのだろうか。

でも、何となく私はこの人が好きだ、と思った。

「私は意地の悪い監督とは仕事しないの。俳優が大好きだから。彼らを傷つける人は許せない。」

と、言い切る彼女。この仕事が好きでやっている。それが全身から滲み出ていた。愛情のこもったきつい冗談そのものが、彼女のような。

 

さて、実際のキャスティングはというと、みんなカメラの存在と、映画という媒体にビビッてまったくいつも通りに出来ていなかった。

私の番は一番最後に回ってきた。シーンはロマン・ポランスキー監督「毛皮のビーナス」の冒頭シーン。

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「なんとかなるさ」精神を持った私は強い。らしい。

カメラとか映画だとか気にしないで、演劇を楽しむことに集中した結果、なんだか上手くいった。らしい。

さらっと書くが、重要なのはここからである。

 

撮影を終え、午後に午前中に撮ったシーンの上映会があった。

自分の顔や演技を画面いっぱいにみることほど辛いことはない。拷問だ。

ナタリー曰く、「俳優はカメラのまえで素っ裸のようなもの。だから、彼以外の人間がクスリと笑うことは許されないの」

私の撮影シーン上映。私も、素っ裸にされていた。拷問だ、と思った。

「ここにいちゃだめだ。日本に帰らなきゃだめだ。」と思いながら、おでこをポコポコ叩く。

映像の中の私のフランス語は、酷かった。正直こんなだと思っていなかった。自分では比較的上手に発音していると思っていたのに、実際は「へたくそな日本語なまりのフランス語」だった。本当に、酷かった。3年やってこれか。

 

上映が終わってから、今まで俳優たちに先に話させていたナタリーが立ち上がって言った。

「この中で、一番フランス語をうまく使いこなせないこの子が、一番この世界に存在していたわよね?私は100パーセント、この子が(シーンの中で)言っていることを信じたわ。この人物はこういう人なんだって、思ったわ」

正直、これ以上ないほどの褒め言葉である。

ただ、私はその横でボロボロと涙を流して「本当に、フランス語どうにかしなきゃ」とブツブツ言っている。

すると「私の今までの賛辞を受け取らないつもりなの?」と。

 

そう、賛辞を受け取ることは難しい。日本人の性格からくるものなのか、私の性格なのか。(ナタリーによると、日本人的な要求の高さ、だと)

一通りの上映が終わって、学校の仲間がわらわらと集まってくる。

「みずき、本当にムカつく」と。

おまえの訛りなんて誰一人として気にしていない。みんなそんなことむしろどうでもいいと思っている。いい加減、発音云々から離れろ。大事なことはそこにはないのだ、と。

 

担任の先生からも言われた。

「いい加減、その態度は腹立たしくなるわよ。キャスティングディレクターがあなたのこと大好きだって言ってるのよ。私たち俳優が賛辞を貰えることなんていうのは、本当に稀なこと。賛辞が欲しくて欲しくてたまらない存在なのにね。だから、しっかり今この瞬間を味わい、彼女の賛辞を受け取りなさい。それも大事なことなのよ。」

 

褒め言葉を受け取ることが大事なことだなんて思ってもいなかった。

出来るだけ謙虚にいることに重きを置くべきだと、そう信じていた。

でも、他者からの真摯な言葉は、届くべき人のところに届かずして、どこに浮かぶのだろう。

 

相手の心からでてきた言葉は、しっかり私の心で受け止めたい。

初めてそう思った。

 

思うのです。

「なんとななるさ精神」は私が思っているよりもずっと大きいものなのだろう、と。

私が考えていた物事を進めていく力以外にも、外部からの力をふわりと受け止めていく、そういう柔らかさを持っているのだと。

 

 

どうやら私にはお芝居することを心から楽しむことの出来る余裕があるらしい。

フランス語はまだまだこれから。こちらも、嬉しいことに改善しかされないもの。

演劇を心から楽しいと思い、同時に舞台への恐怖を感じると、目の前はキラキラして体中がビリビリしてくる。比喩とかでなく、本当にそうなのだ。

あまりの嬉しさに涙が出てくる。こんな感覚、ふつうは味わえない。

それを味うことを選んだ過去の私に、私は賛辞を送りたい。